どんな制約があっても
人生の選択肢を広げることができる
パートナー
株式会社アイズプラス 代表取締役
山野美容芸術短期大学 特任教授
池照 佳代
高校卒業後に米国でTESL(Teaching English as a Second Language)を学び、帰国。英会話学校での講師・学校運営を経験したのち、1992年マスターフーズ(現マースジャパン)に人事職で入社。その後、フォードジャパン、アディダスジャパン、ファイザー、日本ポールにて一貫して人事を担当。2006年、法政大学経営大学院にて経営学修士(MBA)取得。同年、子育てと仕事の両立を目指し株式会社アイズプラスを設立。組織向けにコンサルティングを提供する中でEQ(感情知性)の重要性に気づき、以降、制度設計、人材・組織開発、キャリアデザインなどにEQを取り入れたプログラムを独自に構築し提供している。著書に『感情マネジメント−自分とチームの「気持ち」を知り最高の成果を生みだす』(ダイヤモンド社)。
アメリカ留学で気づいた、それまでの小さな自分
高校卒業後、アメリカの学校に留学されたのですね。そのきっかけは?
私は台湾で生まれ、幼少の頃に家族で日本にきて日本国籍を取得しています。医師である父からは外国人として日本で暮らすにあたり、医師なるようにと子供の頃から言われて育ちました。でも私はどうもそれが素直に受け入れられず、まだ家族のだれもが足を踏み入れていなかったビジネスの世界にぼんやり憧れをもっていました。アメリカに渡った理由は、恥ずかしながら親の期待から逃げたいという気持ちがもっとも大きかったです。その次の理由が「まだ見ぬ世界への好奇心」だったかと思います。当時はインターネットもメールも普及していない時代、自分でいろいろ試してみるには留学は最高の挑戦の機会でした。
しかし、アメリカに行って、「逃げ」の姿勢でいる自分の小ささに気づきました。アメリカでは、障害、移民、宗教、性的嗜好性・・・と多様な方が、自分のことを素直に語り、自らの語りに責任をもって暮らしていることを知ったからです。親の期待から逃げたいと思いながら、結局は親に思いきり甘え、数年をアメリカで過ごして帰国しました。帰国後は、バブル後期の就職活動に苦労はしましたが語学学校からキャリアをスタートすることができました。
人事のプロフェッショナルから経営の学びへ
ビジネスの世界に足を踏み入れられてからの経緯を教えてください。
アメリカからの帰国後、最初からビジネスの世界に入れたわけではありません。最初は英会話学校で講師と教務(学校運営)の仕事に従事しながら転職活動をしました。
当時は秘書やアシスタントのポジションばかりで声がかかる中、マスターフーズ(現マースジャパン)だけが人事部のポジションでオファーが出ました。ほとんどの企業の面接官が男性ばかりだったのですが、マスターフーズだけ「この人の元で働きたい」と感じた女性の方が面接をしてくれたことも入社の決め手でした。
イキイキと自分の仕事を語り、良いことも悪いことも開示し、対等な視点で話してくださる方で、その面接は他社とは全く雰囲気が違っていたのです。すぐに「一緒に仕事をしたい!」と思いました。
ここから奥の深い人事の修行の道に入ることになりました。
マスターフーズ社で、人事についてはほぼ全ての領域を担当させてもらいました。若くても裁量を持たせてもらえる環境で多くのチャレンジができたことが、その後に大きく影響しました。次に、グローバル企業の人事戦略に関心を持って入社したフォードでは、グローバルな環境で自身の担当部門を持ちつつ(HRBP職)、人事テーマをもってマトリックスで研究・勉強できる機会があり、グローバルかつ多様な人材とのプロジェクトに関わることができました。その後、日本法人の立ち上げフェーズにあったアディダス社から声をかけられ、制度構築や人事改革に取り組みました。そんな時、個人的に長年望んでいた、子供に恵まれ、妊娠を機に仕事を退職します。子供に恵まれたら必ず一度は全力で子育てに向き合いたと思っていましたので、嬉しかったですね。
半年ほど専業主婦を経験し、ちょうど将来のキャリアのことをぼんやり考え始めた頃、ファイザー社のダイバーシティ&インクルージョンを日本で推進するポジションで声がかかり、入社しました。その後、日本ポール社でアジアパシフィックでの人事部門確立にも携わりました。
子育てと仕事に奔走する中、フォード時代に上司から「池照は人事のことは知っているが、これから上級職を採用する立場になっていくにあたり、経営の勉強をした方がいい」と言われたことや、ファイザーで経営課題を扱うプロジェクトに入っていたことから、「経営全般を勉強して、人事として貢献したい」という思いが募っていました。そこで、法政大学大学院のMBAに入学し、フルタイムで学生となる選択をしたのです。息子が3歳の頃でした。
息子の存在が働き方の価値観を変えてくれた
大学院卒業後、独立起業をされたのですね。もともとその予定だったのですか?
もともと、会社の中で生かすためにMBAを取得しましたので、最初は就職活動をしました。
大学院卒業後の働き方を考える上で、絶対に守りたいと思ったのは子育ての時間確保と経営に近いところで貢献できる仕事との両立です。当時、ワークライフバランスという言葉はすでにありましたが、これが実践されている会社はまだまだこれからというところ、フルタイムで人事の仕事をしながらかつ納得できるだけの子育て時間を確保することは非常に難しい状況です。私にとって「独立」はこの2つを両立させるための苦肉の策でした。
幸運にも、大学院時代に前職や知り合いから人事関係の仕事を委託されて数件仕事をしており、これが独立をした時の参考になったのです。独立を決めたのは修士論文を出して直後のことで、わずか2ケ月ほどで有限会社を立ち上げました。
「週2回子供と一緒にご飯を食べられないなら、仕事を辞める」と決めたことが、働き方の価値観をガラッと変えてくれたのです。「どちらか」ではなく「どちらも」挑戦できると信じ、家族や周囲を巻き込んでいくことにしたのです。この転換がなければ、私は過去の働き方を引きずったままだったことでしょう。
ご自身の人生の大事にしたいことを中心において、選択された結果だったのですね。
EQ(感情知性)との出会い
池照さんは、国籍、性別、子育て、など一見制約に見えるようなことがあっても、決して大事なことを諦めることなく、常にご自身で選択肢を作って歩んでいらっしゃると感じます。何がそのことを可能にしているのですか?
子供の頃の体験と、EQ(感情知性)に出会ったことが大きいかもしれません。
小学生の頃、両親から「台湾人であることを決して外では言ってはいけない」と言われて育ちました。「なぜ?」と聞きたかったですが、子供心にもその理由は理解していました。「個人の特性」でなく、「個人の属性」で様々な制約や安全に制限がかかることを知り、その事自体が衝撃で悲しかったことを覚えています。時代的にちょうど差別や偏見が原因で多くの悲しい出来事に直面する中高生時代を経て、高校卒業とともにアメリカに渡って多様性に触れたのは先程お話しした通りです。
EQ(感情知性)に本格的に出会ったのは独立をしてからです。事業会社勤務時代と異なり、様々な会社に出向いて人事関連のプロジェクトに関わらせていただくことになった時、同じようなテーマのプロジェクトでもうまくいくチームとうまくいかないチームがある。「なぜうまくいかないチームがあるのか、、、」これが当時の私の悩みでした。
そんな時にEQに出会い、「感情」の持ち方や表し方をマネジメントする能力を後天的に開発できることを知ったのです。それは私にとって大きな出会いでした。プロジェクトの成功のために学んだEQでしたが、同時に自分自身にも少しずつ変化を感じたのです。自分の生まれや祖国について言えないことが、自分の意思や感情に蓋をしながら生きてきた自分の弱さにも気づいていたからです。学んだことを実践してみると、自分の状態や周囲はどんどん変わり、うれしくなってEQの開発に夢中になりました。この出会いによって、幼少期から感じていた”息苦しさ“からも少しづつ解放されていきました。
誰もが、自分の生まれからは逃れることはできません。自分では変えられないことや、周囲からの過度な期待や心配、社会の制約などからなかなか逃れられずに囚われて、かつての私のような重苦しさや悩みを抱えている人がとても多いと感じます。また、誰もが何かしらのマイノリティとも言える時代にもかかわらず、その「違い」をマイナスに捉えて悩んでいる人もいます。
同じ事象や事実に対しても、人がもつ感情は人によって様々で違います。自分のもつ素の感情を通して、自分と周囲との関わり方や働き方をマネジメントするのがEQ(感情知性)です。そして、EQは後天的に鍛えることが可能です。
「自分の感情」に着目することで、ありたい姿に向けて心を動かし、行動することができます。自分で選択肢を広げることもできます。どういう人生を歩むかは、自分で選べるんです。そのことをこれからも伝え、広げていきたいと思います。
池照さんの生き様こそが、そのことを証明されていますね。ありがとうございました。
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